ホーム > 観光情報ページ > 歴史をたどろう > 埼玉県指定旧跡「三富新田」
元禄7年(1694年)7月、長年争いを繰り返してきた北武蔵野のこの土地は、幕府評定所の判断で川越藩の領地であることが認められました。これにより当時の川越藩主柳沢吉保は新田開発を推進し、吉保の命を受けた筆頭家老曽根権太夫ら家臣によって、開発が行われました。開発が始まってから2年後の元禄9年(1696年)5月に検地が行われ、上富91屋敷、中富40屋敷、下富49屋敷の合計180屋敷の新しい村々ができあがりました。これが三富新田です。「富」の由来は「豊かな村になるように」との古代中国の孔子の教えに基づくものです。
三富の地割は、水に乏しく栄養が少ないという厳しい自然条件を克服するための知恵が詰まっています。
屋敷の周りには、竹・カシ・ケヤキなどが植えられました。竹は、地面に根をよく張るため地震に強く、また農具や生活に使うものを作る竹細工の材料になります。カシは農具の柄になり、その実は飢餓のときの非常食になります。ケヤキは建材として大切に育てられ、家にとって必要な時以外はけっして切ることはありませんでした。これら屋敷林を育てたことにより、保水力が上がったと考えられています。
一日の耕作の目安として、5畝単位に区切られていました。乾燥した畑の土は、春と冬の季節風により巻き上げられてしまうことがあります。そこで、畑にウツギを植えて風を防ぎました。その後、お茶が商品作物としての価値が高まると、ウツギから茶の木に変わり、「畦畔茶」として春先の重要な作物となりました。
薪炭材として利用しやすく、葉が堆肥として醗酵しやすい木が選ばれて代々の農家が育ててきました。主な木の種類は、コナラ・クヌギ・エゴです。エゴの木は、杭に利用されました。冬に落ち葉を掃き集めて一年以上かけて堆肥にし、それを畑に投入して土を作ってきました。「一反の畑に一反のヤマ」と言われるように、よい作物をつくるためには平地林からの恵みは欠かせないものです。
緑濃い雑木林と美しく区画整理された畑には、三芳の大地を開拓した先人たちの知恵が詰まっています。その歴史の跡をたどれば、エコロジーに配慮した循環型の暮らしのお手本を学ぶことができるでしょう。