わたくしたちは、武蔵野の自然に恵まれた三芳町を愛し、人間性豊かな住みよい町をつくるため、この憲章を定めます。
三芳町の片仮名「ミヨシ」は円形にデザインし融和と団結を表し、中央にはばたく鳥を図形化し、町の躍進と産業の発展を象徴したものです。
けやきは町内に多く見られ、四季を通じて情緒があり、早春の発芽の美 しさは、樹形の雄大さとともに関東の風物詩となっています。限りなく大きく育つけやきは、町を象徴するにふさわしいとして、町の木に定めました。
きくは、別名をチギリグサ・モモヨグサなど長寿にちなむ名で呼ばれ、 四季を通じて町内のあちこちに、豊かな趣をそなえています。 町民の長寿を願うものと、春夏秋冬を見ることのできる「きく」は、町を象徴するにふさわしいとして、町の花に定めました。
ひばりは、四季を通じて生息する鳥で、古くから私たちの生活とはなじみが深いものです。都市化の進むかなにあって、折に触れその鳴き声を耳にするとき、心のやすらぎを感じ、かつての武蔵野が偲ばれます。
三芳町は首都圏30キロメートルに位置し、埼玉県入間郡の南部、武蔵野台地の北東部にあたり、東経139度31分、北緯35度49分。海抜は37.5メー トル前後、面積は15.33平方キロメートルで、その形状は東西6.9キロメートル、南北4.2キロメータにわたり、西から東へとゆるやかに下る勾配をもつ、関東ローム層におおわれたおおむね平坦な台地です。東に志木市・富士見市、南東に新座市、南西に所沢市、北にふじみ野市・川越市と隣接しています。
三芳町は太平洋岸気候区に属し、冬は北西の季節風が強く、湿度の低い晴天の日が続きます。4月から5月ごろの晩霜が、農作物に被害をもたらすこともあります。夏はかなり高温で湿度も高く、しばしば雷雨があります。年間平均気温は14.3度、降雨量は約1500ミリメートルです。
原始・古代:三芳町の曙は約3万年前の旧石器時代にさかのぼることが、「藤久保東遺跡や藤久保東第二遺跡」から発掘された石器によって明らかにされています。また、藤久保の「俣埜遺跡」からは縄文時代の竪穴住居跡や土器が、竹間沢の「本村南遺跡」からは弥生時代の方形周溝墓などが発掘され、当時の生活の様子を窺い知ることができます。また、平安時代になると、みよし台一帯には瓦や壷などを焼く窯が築かれました。ここで焼かれた器の中には「福麿」と刻まれたものもあり、この町内最古の文字で表わされた人物は、当時のこの地方の有力者と考えられます。
中世・近世:鎌倉時代から室町・戦国時代の武蔵野は見渡す限りの原野でした。鎌倉武士が馬を走らせたとされる「鎌倉街道」が藤久保と竹間沢にあり、竹間沢 には中世を思い起こさせる文化財や地名が残されています。三芳の地域が本格的に開発されたのは江戸時代に入ってからで、徳川家康の関東入国以降、武蔵野台地の開発がすすみ、原野にも開墾の鍬が入れられました。元禄7年(1694)、川越藩主・柳沢吉保による「三富新田開拓」が実施されるに及び、三芳の旧4か村が成立するに至りました。
近代・現代:明治22年(1889)4月1日の町村制施行により、上富村、北永井村、藤久保村、竹間沢村が合併して三芳村が誕生。以来、長期間にわたり純農村地帯として歩んできましたが、昭和40年代から高度経済成長とともに首都近郊のベッドタウンとして、また、首都圏の流通基地としてめざましい変貌を遂げ、人口も急増し、昭和45年(1970)に町制を施行、現在は商・工・農のバランスのとれた町として今日に至っています。
三芳町は、武蔵野の美しい雑木林と、整然と区画された畑を残す町として広く知られて
います。この姿は大昔からの景観だったのでしょうか。三芳町域は、関東ローム層と呼ばれる火山灰が厚く堆積した台地が占め、町の東部に柳瀬川をはじめとする幾つかの小河が流れるものの、ほとんどが平坦で水に乏しい痩せた土地でした。しかし、三芳に暮らした先人たちは長い年月をかけて、知恵と工夫を凝らしながら今の我が町を築きあげてきたのです。
旧石器時代(三芳にはじめてやってきた人々)
人々が、はじめて三芳の地にやってきたのは3万年ほど前に遡ります。この頃の特徴的な石器、局部磨製石斧が藤久保東遺跡や藤久保東第二遺跡で相次いで発見 され、県内最古級の石器として注目されています。当時の気候は冷涼で、生活環境は暮らしやすいものではなかったようですが、人々は獣を追い求めてはじめて 三芳の地に足を踏み入れ、数日間から数ヶ月キャンプをしたものと思われます。竹間沢の新開遺跡からは、石焼き料理をしたと思われる、数百個から中には3千個を越える焼け石が集中する場所が53ヶ所も発見されています。三芳町には旧石器時代の遺跡が数多く存在し、およそ3万年前から1万3千年ほど前までの各時期の石器が出土していることから、旧石器人の狩猟生活にとって良好な環境の土地であったことが窺えます。
およそ1万2千年前になると、氷河期は終わりを告げ海面が上昇し、柳瀬川や江川の谷にも海水が入ってきました。この頃になるとゾウなど大型動物が絶滅したため、狩の方法も変化し、弓矢を使った狩猟が行われるようになりました。また、気候の温暖化に伴って植物も生い茂り、木の実なども重要な食料となったようです。人々は土器を使って調理をしたり、ものを蓄えたりしました。柳瀬川沿いの古井戸山遺跡や江川上流部の俣埜遺跡などの水場に近い台地の縁辺部の遺跡では、約6千年前の土器や炉跡、4千5百年ほど前の住居跡がまとまって発見されています。縄文時代の暮らしは、旧石器時代の移動型から、定住型へと変化してきました。
およそ2千5百年ほど前、九州地方に稲作の技術が伝わりました。稲作は日本列島をゆっくり北へ伝わり、三芳周辺で稲作が始まったのは2千年ほど前のことで す。この頃の遺跡には、竹間沢の本村南遺跡や古井戸山遺跡があります。いずれも柳瀬川流域にあり、台地から流れ出る湧き水が小さな谷を作っています。この谷をせき止めると容易に水田ができることから、初期の稲作に適した場所だったのです。西暦2百年前後には、柳瀬川流域で大規模な集落が営まれるようになり ます。本村南遺跡では現在までに19軒の住居跡が調査され、籾跡の付いた土器等が見つかっています。また、有力者の墓とされる方形周溝墓も発見されており、定住農耕型の生活の中からムラの秩序や人々の役割が生まれ、その中から力を持ったムラの首長が登場したことが窺えます。
3世紀から7世紀頃、日本の各地に古代豪族が出現します。武蔵の国は、知々夫国造・无邪志国造・胸刺国造という3つの国造により治められていたといわれ、 三芳地域は无邪志国造の支配下にあったと伝えられています。県内には大きな古墳が幾つかありますが、三芳町では、本村南遺跡と本村北遺跡で古墳時代後期の住居跡が僅かに発見されているのみで、大きな集落は存在せず、古墳も確認されていません。古墳時代には大規模な水田が作られるようになりましたが、三芳町のほとんどは台地上に位置し、柳瀬川流域の僅かな湿地では大規模な水田を営むことができないという地形的な要因が大きく関わっていると考えられます。奈良・平安時代(台地を拓き、窯業を営んだ人々)奈良・平安時代は、仏教や律令制度に代表される大陸文化が花開き、天皇中心の国家が形作られました。三芳町は武蔵国入間郡の一部となり、平安時代の中頃に、新開遺跡や俣埜遺跡で須恵器の生産が行われるようになりました。これらの遺跡はどちらかというと台地の奥部に当たります。このような場所に窯が築かれたのは、大量に消費する赤松や楢などの燃料の確保が容易であったためと考えられます。須恵器窯の出現は、台地が少しずつ人々の生産活動に利用され始めたことを示しています。
江戸時代の初めころまでの三芳の大部分は、北武蔵野の一部をなす原野でした。ただ台地の縁にあたる竹間沢は湧き水に恵まれ、集落の成り立ちは鎌倉時代に遡ると考えられます。竹間沢地区からは、鎌倉時代の武士の阿弥陀信仰の遺物・板石塔婆(イタイシトウバ)が多数発見され、「ババ(馬場)」・「マトバ(的 場)」・「ヤグラ(矢倉)」など中世武士の館を連想させる地名が残っています。
武蔵野といえば雑木林。多くの人たちに共通するイメージと言って良いと思います。しかし、このイメージを形成する景観は江戸時代以降につくられてきたもので、それ以前の武蔵野は茫々とした原野の広がる、文字通り武蔵国に広がる広大な野というものでした。それが江戸時代初頭新田村が拓かれるにいたって、農用林として育成された林と屋敷を囲む林が、後に武蔵野を代表する景観になったのです。
江戸時代に入り、武蔵野の開発が急速に進みます。開発を積極的に進めたのは川越藩で、藩営新田として次々に新しい村を誕生させていきました。山も川もない平坦な土地に新村をデザインするわけですから、都市計画された村ができました。三芳町域の藤久保、北永井、上富地区は、それぞれ中央の道路に沿って規則正しく屋敷と耕地が並んでいます。この3村は道路を中心に地割りされた新田村で、古くからの竹間沢地区と際だった違いを見せています。
武蔵野の新田開発の中でも、特筆されるのが「三富新田の開発」です。三富新田は三芳町と所沢市にまたがる約1300ヘクタールの三つの村の総称です。三富の中でも三芳町の上富地区は、中央に走るケヤキ並木沿いに屋敷が並び、1軒分5ヘクタールに地割りされた耕地と平地林は今でも江戸時代の新田村の面影を色濃く残しています。三富村の3か村が公式に誕生するのですが、原野を今日見るような豊かな村に仕上げていくのには、入植した農民の世代を重ねた努力が必要でした。
元禄7年(1694)の開発からしばらくの間は、農業経営も安定しなかったと考えられます。火山灰(関東ローム)のやせた土地では、アワ・ヒエなどの雑穀しか収穫できなかったと思われるからです。しかし、寛延4年(1751)に千葉県市原市から当地方に救荒作物としてサツマイモがもたらされると、三富地域でもさかんに作られるようになり、文化年間(1804〜1817)には、江戸で「川越いも」の中でも「富のいも」が評判になったと伝えられます。この名品のサツマイモは、現在も「富の川越いも」のブランドで脈々と作り続けられています。
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